1940年代

+1940

6月、ポルシェKGは4輪駆動のタイプ87 “VWキューベルワーゲン”をベースとした水陸両用のオフロード車の開発を軍兵器局から要請されました。最初の実験的なタイプ128“VW水陸両用車”は、ツッフェンハウゼンのポルシェ工場の池で初期の試験が課せられ、11月上旬、さらに3台のタイプ128 “VW水陸両用車”について、より広範囲な試験走行が行われました。

この年、Dr. Ing. h.c. F. Porsche KG は“KdFワーゲン”のために多くの細部にわたる技術的ソリューションを開発しました。例えばオールシンクロメッシュのトランスミッションやガソリン/電気式ヒーターなどです。

8月、ベルリン風力研究会社のためにポルシェ設計事務所は一連の風力発電機の設計を開始しました。製造されたのは電力区分130 W(タイプ135)、736 W(タイプ136)、4500 W(タイプ137)の3種類の風力タービンで、これらは試験のためにツッフェンハウゼン、シュヴァーベン地方グミュント、およびホーエンハイムに設置されました。最も大きいタイプ137の三枚羽根ローターの直径は9.2 mで、高さ17 mのスチール製の台の上に設置されました。

オーストリアのシュタイヤー社のためにポルシェのエンジニアはオートバイ用リアサスペンションや木炭ガス発生装置を開発しました。また8気筒のシュタイヤー社の車や軍用の全輪駆動トラックについてもノウハウを提供しました。

1940年9月、65才の誕生日に合わせて、帝国科学教育省はフェルディナンド・ポルシェ博士に名誉教授の称号を授与しました。

+1941

ダイムラー・ベンツAGの取締役会は兵器省に対し、ポルシェ設計事務所をコンサルタントに採用することを提言、これを受けて帝国兵器・弾薬大臣フリッツ・トート博士は6月、ポルシェ博士を戦車委員会の議長に指名しました。

戦時経済に移行する中で、ツッフェンハウゼンの主力工場では1941年~1944年の間、外国人労働者が強制徴用されました。

重量区分50トン超の戦車について軍兵器局から入札公告があり、ポルシKGはタイプ101“ タイガー”によってこれに参加しました。しかし、まったく新しい空冷 10 気筒ディーゼルエンジンを開発して量産可能な完成度にまで高める時間的余裕がなかったため、ライバルのヘンシェル社が落札しました。

タイプ111のトラクターの進化バージョンであるタイプ112 “フォルクストラクター”が登場、より大型のエンジンと最適に改良されたトランスミッションが搭載されました。空冷V型2気筒エンジンの排気量は1700 ccで、定格出力は15 PSでした。

タイプ128 “VW水陸両用車”と138 “VW全地形対応車”の試験と開発の結果、ホイールベースを短くした、より小型の新しいコンセプトのタイプ166 “軽量兵員輸送車” 実験車両が誕生しました。コンパクトな構造により車両重量わずか900 kgとなったタイプ166はオートバイとサイドカーの組み合わせに代わるものとして造られました。

+1942

最低地上高の高い軍用トラクターが存在しなかったため、ポルシェKGは1月、タイプ175“ Ostradトラクター”の開発を受注しました。非常に大きなホイールを備えたタイプ175は、第1次世界大戦中にフェルディナンド・ポルシェが設計したアウストロ・ダイムラーの迫撃砲牽引車に似ていました。

3月、ポルシェ博士は超重量級の装甲戦闘車タイプ205 “マウス”の設計を依頼されました。装甲厚は240 mmで移動可能なトーチカとして使用することを意図したものでした。設計作業終了時点でガソリン/電気式のドライブトレインを備えたこの戦車の総重量は驚異的な189トンにも達しました。“マウス”のプロトタイプは2台のみ製造され、1944年と1945年に試験が行われました。

タイプ101の戦車“タイガー”をベースとして、マイバッハの2基の水冷式ディーゼルエンジンを搭載した駆逐戦車(社内での呼称はタイプ131 “フェルディナンド”)が開発されました。

タイプ220という設計名称のもとで、ターボチャージャーを搭載した最高出力800 PSの36.8リッター空冷16気筒直接噴射ディーゼルエンジンの開発作業がスタートしました。しかしこのタイプ220は戦争終結までに2基の試験用エンジンが製造されたのみでした。

+1943

1943年には空襲警報や実際の空襲により、ポルシェAGは依頼された作業を進めることが困難になりました。最優先されたのは装甲戦闘車、タイプ205 “マウス”でした。このプロジェクトに関してポルシェはダイムラー・ベンツAGと密接に連携し、ダイムラー・ベンツからは1080 PSの水冷直列12気筒エンジン、タイプDB 509が提供されました。5月、“マウス”の木製フルスケールモデルがヒットラーに披露されました。最初のプロトタイプは12月下旬に完成し、試験走行が行われることになりました。装甲戦闘車、タイプ205 “マウス”の公式の試験は1944年1月中旬から10月末までベブリンゲンの戦車駐屯地で実施されました。

タイプ82“VWキューベルワーゲン”向けに非常に素早く装着可能な履帯(呼称:タイプ155)が開発されました。しかし戦争のこの段階での物資や機材の不足により、量産には至りませんでした。

8月、タイプ157軌陸車の試験がシュトゥットガルトのメインの駅の側線で行われました。この車両はタイプ82およびタイプ87 “VWキューベルワーゲン”をベースとしており、道路用のホイールの内側に軌道案内輪を装着したことで、線路上でも車両が走行できるようになっていました。

基本的な技術的問題に関する軍需大臣アルベルト・シュペーアとの意見の相違により、フェルディナンド・ポルシェ博士は10月、戦車委員会(Panzerkommission)の議長の職を解かれました。

+1944

シュトゥットガルトへの激しい空襲により、ポルシェの従業員の生命の危険が増してきました。秋、ドイツ国防軍兵器局の勧めにより、ポルシェKGは設計事務所をシュトゥットガルトからオーストリアのケルンテン州グミュントに移しました。チーフエンジニアのカール・ラーベの指揮の下、“W. Meineke Holzgroßindustrie Berlin-Gmünd”という製材会社の敷地内に一時しのぎの工場が建設され、また資材倉庫はツェル・アム・ゼーの近くの航空学校に置かれました。新しいポルシェ工場は実際には多くの作業場と住居に分散されており、従業員から“鉄と鋼の合併工場”と呼ばれていました。

グミュントで取り組まれた初期の開発プロジェクトのひとつに、1000軸馬力を発生するガスタービン(タイプ305)がありました。これは装甲車を駆動する目的で設計されましたが、設計段階よりも先に進むことなく戦争終結を迎えることになります。

これと平行してポルシェのエンジニアはフォルクスワーゲン用の新しい2ストロークディーゼルエンジン(タイプ309)や木炭ガス発生装置(タイプ230)の開発作業に取り組みました。ツッフェンハウゼンでは4輪駆動のタイプ87をベースとした“コマンダー”のシャシーが、タイプ287の呼称のもとで設計されました。

当初、空襲の被害は2月と4月のわずかなものだけでしたが、10月19日から20日の夜にシュピタールヴァルト通りの工場は激しい爆撃を受けました。直前に屋根裏部屋から工場の建物の地下室に移動していたにもかかわらず、保管されていたフォルクスワーゲンのスペアパーツのほか、図面や書類も被弾しました。

+1945

戦争終了後の6月、Dr. Ing. h.c. F. Porsche KGのツッフェンハウゼンの工場は、最初はフランス軍当局により、本国送還を待つロシア人戦争捕虜の一時収容キャンプとして使用されました。8月、アメリカの部隊がこの工場を接収しトラック修理工場になりました。

8月8日、グミュントのポルシェ工場はイギリス軍政府から作業再開の暫定的な許可を得ました。チーフエンジニアのカール・ラーベをトップとする約140人のポルシェ従業員は、“原動機付トラクター、ガス発生装置、およびその他の民生用装置についての設計作業を請け負うこと”ならびに“原動機付車両と農業機械”を修理することが許可されました。具体的な設計作業は、ケーブルウィンチから水力タービン、建物の付帯設備、スキーの締め具などに及びました。

8月上旬、連合軍政府の命令によりフェルディナンド・ポルシェ博士はグミュントで逮捕され、他の産業界の著名人とともにバートナウハイム近郊クランスベルク城の“特別拘留キャンプ”に拘禁されました。しかし証人の供述のおかげで9月中旬には早くも無罪放免となり、釈放されました。

11月中旬、フェルディナンド・ポルシェ博士はバーデンバーデンに赴いてフランスでのフォルクスワーゲンプロジェクトの再開について話し合うというフランスの委員会からの誘いに応じました。しかし1カ月後、何の契約も交わされないうちにフェルディナンド・ポルシェ博士と息子フェリーおよび娘婿の弁護士アントン・ピエヒは、バーデンバーデンでの2回目の話し合いの場でフランスの諜報機関により逮捕されました。

+1946

フェリー・ポルシェは3カ月にわたる拘留後の1945年11月に釈放されてバート・リッポルトザウに自宅軟禁されましたが、フェルディナンド・ポルシェ博士と弁護士アントン・ピエヒは5月にパリに身柄を移されました。ポルシェ博士はそこでは囚人として、最初はフランス人エンジニアにルノーの小型車4 CVの開発についてアドバイスをしていましたが、1947年にはディジョンの刑務所に移送されることになります。

6月、スイスの顧客ループレヒト・フォン・ゼンガーからグミュントのポルシェ設計事務所に連絡があり、4シーターの車の依頼がありました。この車はイギリス軍当局の許可を得て、ポルシェ タイプ352として設計されました。ミニチュアモデルが作成され、ボディはエルヴィン・コメンダによりデザインされましたが、これはのちのポルシェ356と驚くほど類似していました。

8月、ポルシェ社はケルンテン州が開催した貿易産業見本市に参加しました。グミュントで製造された製品がポルシェという会社の名前で登場したのは、これが初めてでした。具体的には、水力タービン、ケーブルウィンチ、スキー場のリフト、刈り取り機用のツメ、そして“フォルクストラクター”をベースにしたさまざまなタイプのトラクターなどが出展されました。

12月15日、カルロ・アバルトとルドルフ・フルシュカの斡旋により、チシタリア社の代表であるトリノの実業家ピエロ・ドゥジオと広範囲にわたる開発契約が結ばれました。グミュントのポルシェKGはこの顧客のために、小型トラクターや水力タービンに加え、グランプリレーシングカーのタイプ360と、2シーターのミッドシップエンジン搭載のスポーツカー、タイプ370の設計作業に着手しました。

+1947

グミュントのポルシェKGのデザイナーはグランプリレーシングカー、タイプ360に全力で取り組みました。このデザイナー達がチシタリア社のために開発した車は時代を大きく先取りしたもので、ドライブトレインにはスーパーチャージャー付1.6リッター12気筒エンジンを搭載、さらにパートタイム式の4輪駆動システムを装備していました。またツーリングスポーツカーのタイプ370にはミッレミリアのような長距離レースで戦えるようにするため、2リッター水平対向8気筒エンジンが計画されました。しかしイタリアの顧客の資金不足により、チシタリア社のレーシングカーは試験段階よりも先に進むことはありませんでした。

4月1日、ドイツの会社に財産没収の危機が迫っていることを見越して、オーストリアに“Porsche Konstruktionen GmbH”(本社:グミュント)が設立され、4月24日に正式に商業登記されました。新しい会社はポルシェ博士の娘ルイゼ・ピエヒとチーフエンジニアのカール・ラーベをトップとし、Dr. Ing. h.c. F. Porsche KGのオーストリアにあった部署の従業員と機械類が引き継がれました。

7月17日、タイプ356 “VWスポーツカー”の設計作業がスタートし、1938年にさかのぼるタイプ64“ベルリン-ローマカー”をベースとした車のボディの初期の図面が作成されました。

証人の供述が好意的だったにもかかわらず、フェルディナンド・ポルシェ博士と弁護士アントン・ピエヒは1947年に入ってもフランスに拘留されたままでしたが、8月1日、チシタリア社からの開発依頼による利益で得られた百万フランスフランの保釈金と引き換えに、ようやく2人は釈放されました。戦争犯罪の嫌疑でポルシェ博士に対してフランスで着手された捜査は、正式な起訴にまでは至らず、1948年をもって終了となりました。

+1948

、社内内開発コード番号356.00.105のもとで設計が進められてきた車が実際に製造されました。こうしてスポーツカーブランド、ポルシェが誕生したのです。6月8日、ポルシェ タイプ356のプロトタイプ(車台番号356-001)の走行準備が整い、ケルンテン州政府はこの車に特別に1回限りの公道走行許可を与えました。最高出力35 PSのVWエンジンをミッドシップに搭載したこのスポーツカー“グミュントロードスター”は、車両重量わずか585 kg、最高速度は135 km/hに達しました。

スポーツカーメーカー、ポルシェは、最初からレースを新しい開発/実験の場として活用していました。8月1日、インスブルックの公道で開催されたレースで、ヘルベルト・カエスがステアリングを握ってポルシェタイプ356 “No. 1”が参戦し、デモンストレーションラップで好タイムをマークしました。

この年の後半、クーペおよびカブリオレ仕様のリアエンジンのポルシェ356の生産が開始されました。スイスの企業家ループレヒト・フォン・ゼンガーは、必要な資金、欠けていたいくつかのスペアパーツ、シートメタルを提供し、スイスへの輸出用にポルシェのスポーツカーを5台購入しました。ゼンガーはホテル経営者で自動車販売業者のベルンハルト・ブランクとともにスイスの自動車販売業者AMAGアウトモビール・ウント・モトーレンAG社とポルシェとの将来的な協力関係の基礎を築きました。

9月、フェリー・ポルシェはバート・ライヒェンハルにおいて、フォルクスワーゲンヴェルクGmbHの取締役でのちの社長と、将来を見据えた契約を結びました。これよりも前、フォルクスワーゲン工場はイギリス軍政府によって接収され、少佐アイヴァン・ハーストの管理のもとで車の生産が開始されていました。フォルクスワーゲンはVWビートル1台につき今後5ドイツマルクのライセンス料をポルシェに支払うことに加え、ポルシェのスポーツカー向けの部品供給を行うこと、およびポルシェがフォルクスワーゲンの販売組織とサービス網を利用できることに合意しました。その代わり、ポルシェのエンジニアはヴォルフスブルクの開発部門に対してコンサルタントとして支援を行うことになりました。

+1949

続いて5月14日、“Porsche-Salzburg Ges.m.b.H.”が弁護士アントン・ピエヒとその妻ルイーズ・ピエヒによって設立されます。

2月、最初のタイプ356/2カブリオレが完成しました。3月17日、このスポーツカーは最初のタイプ356クーペとともにジュネーブモーターショーで披露されました。

オランダ人自動車販売業者ベン・ポンが、ポルシェのスポーツカーの世界初の正規インポーターとなりました。

グミュントが手狭な状態になったため、自動車生産の中心地、シュトゥットガルトに“Porsche Konstruktionen GmbH”を戻すことが試みられました。シュピタールヴァルト通り2番地の以前のポルシェ工場はまだアメリカ軍当局に占領されていたため、シュトゥットガルトのフォイヤーバッハ通りのポルシェの別荘に事務所と小さな工場が置かれました。その後すぐに、ポルシェGmbHはシュトゥットガルト・ツッフェンハウゼンのコーチビルダー、ロイター車体製造会社(Karosseriewerk Reutter & Co. GmbH)から600平方メートルの建物を借り、タイプ356の生産の準備を始めました。
ゲッピンゲンにある農業機械メーカー、アルガイヤー社がトラクター、ポルシェ タイプ323の製造事業を取得し、1949年~1957年の間に2万5千台以上が生産されました。

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